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OPAMブログ

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大分のアート立国、文化リテラシー物語  その六

寄稿 2013.10.21

 10年以上も前に、九州でも珍しい、大規模で充実した劇場ホールである県立(いいちこ)総合文化センターができたことは、「上演芸術好き」にとって素晴らしいことだ。

 この4月から館長になった、日本の先駆的オペラ上演グループ「二期会」を率いておられ、県立芸術文化短大の学長でもある中山欽吾先生は、しばしば僕に「パフォーミング・アーツはむろん自分のプロ領域ですが、個人的には美術の方がもっと好きかもしれませんね」と言われるし、そして新しい美術館にも深い関心を持っておられ、いろいろ貴重な助言をいただいていて、大変助かっている。

 美術館の開館に向けて、劇場の方も素晴らしい大きな企画を練っており、相互の盛り上げ効果は抜群になろうかと、ワクワクしながら話をきいている昨今。

 お返しというわけでないが、僕も音楽、バレエ、ダンス、演劇が飯より好きで「本当は、プロとして仕事をやってきた美術の領域より、上演芸術の方が好きかもしれない」と思うぐらいの劇場好きである。

 劇場の楽しみは、普段と違ったぜいたくなきらびやかさ、人々が着飾って集い、笑いさんざめく、その華やかさにまずあると思う。けれど実は、一番大事なのは切符を買って、カレンダーに印を付けて、女房が「楽しみですね」と日々うれしそうな顔をして言う、そういう何か「待っている時間、期待の日々」のうずく憧れのような、心にポッとともる火なのだという気がむしろする。

 それが普段の日常を彩り、より豊かなものにする、ひいては普通の日常さえも、輝かしい舞台と同じように新しい目で見つめ、見直せるのじゃないだろうか。

 舞台を見に行くということの最終の目的は、私ども全ての人生が、それぞれめいめい、いろいろなかたちでの、素晴らしい、輝く一幕の劇なのだということを自覚する、そういうことではないかと思っている。

 もう一つは、あらゆる上演芸術は乱暴にいえば、古代の人々が行っていた呪術や祭祀(さいし)にその起源を持っているということだ。

 だから今日もなお、究極的にいえば、演技や演奏を通して観客も演者もそこにいる全てが「この世ならぬものの声」が降ってくる、降りてくる奇跡に参加することであるように思える。

 ショパンの演奏会で、結局僕が期待するのは、会ったこともなく、どのような人かも知る由もない、そのショパンの肉声が亡霊のように聞こえてくる、その瞬間が訪れるか否か、その一点にかかっているといって過言でない。聴く能力を棚に上げていえば、優れた演奏とは僕にとって、そのショパンの肉声を聴かせてくれるもの、駄目な演奏とはそうではないものと、判断も簡単だ。

 年頭に女房とウィーンのフォルクス・オーパーの演奏会を、サントリーホールに聴きに行くのを恒例にしているが、その時にいつも2階のロビーから、日田の名匠宇治山哲平画伯のデザインした壁画を眺めるのは、また無類の楽しみだ。

 皆さんもそういう体験があるだろうけれど、僕は子どものころ、積み木狂だった。そして木の積み木だけでなく、百科事典でも何でもかんでも積み木にして、一日中遊んでいて飽きなかった覚えがある。

 宇治山さんの絵や壁画を見るたびに、僕は子どものころの積み木遊びを思い出して、うれしくなる。
 そうして僕の積み木遊びは、実はいまだ知らない世界の大きさや不安を前にして、「宇宙を曼荼羅(まんだら)のように」自らの肉体へ取り込もうとして格闘していた、幼い子どもによる、「哲学=『もの』遊び」であったことをも知るのである。

 そうしてそのたびに「宇宙芸術霊」が、積み木を通して子どもの自分の身体に降りてきたからこそ、こうして僕はいまだに美術から離れられないのだということもよく分かるのである。

新見 隆(にいみ りゅう)
県立美術館長
武蔵野美術大芸術文化学科教授

大分合同新聞 平成25年10月21日朝刊掲載