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OPAMブログ

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大分のアート立国、文化リテラシー物語  その二十

寄稿 2014.12.29

 今年4月から大学の学科の同僚になったKさんは、昔のセゾン美術館の同僚で、僕と同じ?「歌って踊れる学芸員」(つまり作品をつくる作家でもあるという意味)だ。彼はセゾン美術館の後に神奈川県立近代美術館に移って展覧会の企画をしながら、同時に名だたる前衛作家が個展をするので知られる日本橋のヒノギャラリーで個展を開いてきた。学科では美術館に関する授業と主に実技を教えている。

 小さい頃から誰にも習わずに作品をつくり、絵を描いてきた僕は、昔から彼によく絵などを見せて「新見さんまだまだ線が硬いですよ」などとアドバイスをもらっていた。彼はアメリカの有名大学の大学院で美術を学んだエリートである。

 僕はアカデミックな美術教育を受けていないが、むしろ何にでも貪欲に手を出して、絵も描くしコラージュや箱、焼き物にガラス、人形と手当たり次第につくってきた。そして見たら、すぐまねしたがる「エピゴーネン=まね師」である。

 実はそんな僕は「幼稚で原始的、野蛮に」アートと付き合ってきたこの50年余といえるのではないだろうかと思っている。Kさんがあるところに書いた文章を以下に引用しよう。

 「一枚の絵を前にして、『わたしも絵を描いてみたい』と感じさせられることは誰にもあるだろう。それはある意味では、絵画に対する最も素朴な反応といえるかもしれない。例えば画面の中に発見した一つの形態でもいい、あるいは特定の色彩、あるいは独特の筆触…。何かが理屈を超えて視線の内側に、そのたぐいの刺激を与えるのである。幼い頃には何のためらいもなく、誰もがいろいろな絵を描いていたとするなら、忘れてしまった幼年期の衝動が呼び起こされるといってもいいだろう。絵を『見ること』と『描くこと』とは、知的成長とともに大きく乖(かい)離(り)し、別物になってゆく。子供は貪欲に無節操に『模倣』する、あるいは模倣的な目で画面を追う。大人はそれを自制する。子供は『模倣』の意味や技巧を問わないが、大人はまずもってそれを思案する。その結果、礼儀正しく作品を鑑賞し、わたしは絵描きではないと再確認するのである」

 ということは「俺は大人になっていないのか? ずっと子供のままで生きてきたのか?」と思い、がくぜんとするどころか「それが自分らしくていいんじゃないか」「他の生き方なんかしたくもないし」と思う今日この頃だ。

 だから僕はミュージアムの授業で、学生には極論と断った上で「鑑賞が始まる瞬間、それが本来の幼稚で原始的で野蛮な『目』=『見ること』の堕落なんだよ」と言っている。「鑑賞とは堕落である」。それは僕の本当の実感である。

 「見ること」に内在している本来の幼稚で野蛮で原始的な「野性」を取り戻したい。それが実は、僕が今度の新しいミュージアムに懸けている希望の一つである。人間は世界や自然から(特に近代以降)見捨てられ、打ち捨てられたものであるとしよう。だとしたら人間が世界に対するときに受けるものは、ズバリ不安と恐怖であるはずだ。

 社会的人間はそれらの不安と恐怖から安易な形で逃げようとするが、その逃げ場の典型的なものとして、現代では記号化された安全パイ「キャラクターやスター」が挙げられるかもしれない。これも僕のあるゼミ生の説を借りたのだが…。

 その対局にあって、世界の不安と恐怖を全身で引き受け、一個の肉体全てで受け止めようとしている人間の姿が芸術作品の根源にはある。だから僕ら社会的人間は、それに衝撃を受けるのである。

 そしてミュージアムこそは、その野性の原動力の熱気に、自ら体ごと飛び込んでゆく真の創造の場なのである。僕がいつも「観客というものはいない。全ての人がアーティストである」と言うのは、正しくそういう意味においてである


 新見 隆(にいみ りゅう)
 県立美術館長
 武蔵野美術大芸術文化学科教授

大分合同新聞 平成26年12月29日朝刊掲載

9月23日に大分市美術館で開催された県立美術館教育普及グループによる「カオカオ・ミュージアム」で、顔を白く塗って作品に登場する人物のまねをする参加者ら
9月23日に大分市美術館で開催された県立美術館教育普及グループによる「カオカオ・ミュージアム」で、顔を白く塗って作品に登場する人物のまねをする参加者ら