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OPAMブログ

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大分のアート立国、文化リテラシー物語  その二十一

寄稿 2015.02.02

梶井基次郎の小説「檸檬」にささげた新見館長の箱作品。梶井をオマージュした県立芸術文化短期大出身の作家の絵を大分市のアートプラザで見て触発され、まねしたもの

梶井基次郎の小説「檸檬」にささげた新見館長の箱作品。梶井をオマージュした県立芸術文化短期大出身の作家の絵を大分市のアートプラザで見て触発され、まねしたもの

 卒業制作・論文展で、美大における1年の行事が終わった。「ものづくり」の熱気が日頃から充満している美大だが、とりわけ卒展前には「つくるぞーッ」という熱狂が最高潮に達する。環境や空気に影響を受けやすい単純な人間である僕は、4年生のさまざまな面白い作品に触れ、講評を述べたりすると、がぜん「俺も、つくらいでか」という気分が盛り上がる。

 年末から正月にかけて、開館記念展の図録の巻頭論文を書き、ゼミ生の論文や制作ノートに目を通しながらメールで疑問点やら注文を付けたり。合間に家でやっていたのは、バッハのバロック音楽を聴くことと、国東の医者にして宇宙哲学者、三浦梅園の本を読むことだ。

 感覚的な人間で「とても歯が立たない」と思った梅園哲学も、バッハの宇宙音楽を聴きながらだと、自分なりに分かったような気(しょせん誤読だろうが)になってきた。とうとう「バッハと三浦梅園にオマージュする」作品をつくった。

 何でバッハと梅園なのか。実は2人とも主に18世紀の人で(バッハが没した1750年には梅園はまだ青年である)、同じ時代精神の空気を呼吸している。友人のチェンバリストは、バロックというのは人間の感情を極端に、つまり激しいものはより激しく、悲しいものはより悲しく、過激に肥大誇張して表現する時代だと言っていた。

 バッハはプロテスタントの教会や宮廷の作曲家としてずっとドイツの地方都市で仕事をし、梅園も長崎以外にはほとんど遠くへ行かず、国東の安岐で医者、経世家、教育者として暮らした。

 2人の探求の根っこにあった「宇宙的(宇宙をある体系の下に捉えようとする)世界観」は、すごく似ていると感じる。直観でいえば、ほとんど同質のものに思えて、それを自分の小さな「箱」作品で手前勝手に確認したかった。

 初めて梅園資料館に行った時に、研究員の浜田晃さんに教えてもらった梅園哲学にも感銘を受けたが、梅園旧宅の裏庭が独特の平穏な気配を持っていたことに、不思議な感興を覚えた。

 話は飛ぶが、年末に大分市のカモシカ書店という、岩尾晋作さんが始めたすごく面白いカフェ本屋さんで、誰から頼まれたのでもなく、「気ままゼミ」という会をやらせてもらった。

 米国ニューヨークで20世紀を通じて、箱の中に劇場のような、箱庭のような、立体コラージュをつくり続けた偉大なるアーティスト(僕なんかしょせんこの人の物まね)ジョセフ・コーネルの話をした。

 文人画だって、画賛という絵も文も一緒にたしなむというか楽しむ、異ジャンル混交、折衷接合文化が日本にはある。近代になって絵や彫刻、詩文、踊り、歌などそれぞれのジャンルは単独なものに籠城してしまった感じだ。
 長く美術大学の教員やキュレーターをやりながら「21世紀にふさわしい、新しい芸術の形式」、誰もが簡単に始められて、なお奥深く、さらに面白いものがいったいどこかに転がっていないものかとずっと模索してきたこの50年余りだ。
 生涯においてずっとものづくりのライバルは遊行の彫刻師円空、そしてキュレーターとしてはわび茶の大成者千利休だ。
 芸術的であるということは何も、手を動かしてものをつくることに限らない。世界を自分なりに面白がって受け取る人は皆アーティストだ。その主義根本は全く変わらないが、それでもなお夢は果てしない。

 立体コラージュ、人形劇、文学的アート、あるいは茶会みたいな人の出会い系アート、なんていう摩(ま)訶(か)不思議なるものに、僕は新しい「大分県民皆芸術家主義」の見果てぬ夢を描き続けているのかもしれない。それが、一方で県立美術館に託す僕の夢でもある。


新見 隆(にいみ りゅう)
県立美術館長
武蔵野美術大芸術文化学科教授

大分合同新聞 平成27年2月2日朝刊掲載