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大分のアート立国、文化リテラシー物語  その二十五

寄稿 2015.05.18

グスタフ・クリムト「ヌーダ・ヴェリタス」(1899年、Theatermuseum,Vienna)

グスタフ・クリムト「ヌーダ・ヴェリタス」(1899年、Theatermuseum,Vienna)

 4月24日の新美術館オープンから3週間余り。ゴールデンウイークを挟んで、もう6万人近くの県内外の方々が訪れ、楽しんでいただいている。
 連休明けの7日から「小学生ファーストミュージアム体験事業」が始まった。県内各地からバスを仕立てて、1日千人を超える元気いっぱいの小学生が生き生きと名画を体いっぱいで体験してくれている。教育普及担当者はじめ学芸員、ガイドさんらスタッフ総出の大事業で、館内はてんてこ舞いである。
 だが、これは未来へ向けての大きな種まき、文化の広がりの第一歩である。乱暴に言えば、この時この瞬間に彼ら小学生に「芸術とは何か、ミュージアムとは何か」分からなくて当然である。「何だか面白い場所に行っていろいろな絵を見たぞ」という淡い、おぼろな体験こそが、“宇宙芸術霊”の良き呪縛となって、5年後、10年後に大きな文化の花となって開くと僕は信じるのである。自分の経験でそれは絶対に分かる。
 だからもちろん、彼らが来たからには、大人や親は「ミュージアムに行かないと子どもたちに後れを取る」と思っていただきたい。
 さあ僕としては、開館記念展の第2弾、10月31日からの「神々の黄昏(たそがれ)ー東西のヴィーナス出会う世紀末、心の風景(けしき)、西東」展の準備追い込みである。
 オーストリア・ウィーンの至宝、国立美術史美術館付属演劇博物館所蔵のグスタフ・クリムトの初期の最高傑作「ヌーダ・ヴェリタス」(真実の裸身)と宇佐神宮の文化財、天福寺の木造仏像が時空を超えて「出会う」のがハイライトだ。
僕がこの展覧会に込めたのは、大分県全体が「未来のヴィーナス」になってほしいという憧れと願いである。「モダン百花繚乱(りょうらん)―大分世界美術館」に込めた思いが「大分県そのものが世界に冠たる一大ミュージアムなのだ」というものと同じことである。
 僕は芸術の根幹にあるのは、憧れであると信じている。それは恋い焦がれることと同じで、近代の浪漫(ロマン)主義もこういう熱情から出発した。それは同時に「目に見えるもの」を感じながら、「目に見えないものの存在」に憧れ、恋い焦がれ、身を焼かれ、それを信じることだ。
 例えば、僕は古里である広島県東端の港町、尾道のことを思うとき、目をつむっていても、その坂の起伏、小路の暗がり、井戸の匂い、クレーンのつち音、夏の海の輝きを体の隅々にまで感じて、生きることができる。
 生まれ故郷は僕にとって母体と同じもの、いやもっと大きな自分の先祖のようなもの、そしてだから憧れのヴィーナスなのである。
 大分にはすてきな女性やチャーミングな人々がたくさんいる。そしてきっぷの良い男前もいっぱいいる。それは職業や年齢にかかわらない。ある意味において人間は両性具有である。今の時代、男も女もない。生き生きとした人はすてきなのだ。
 だが、そういう意味をさらに超えて、僕は僕の体の中で「大分そのもの」が古里尾道のようにだんだん、ゆっくり、途方もない大きなヴィーナスになってゆくのを感じる。それが土地と人々、そしてその土地の霊と生きるということだろうと思う。
 僕はミュージアムの仕事をしながら、自らの「大分というヴィーナス」への憧れを育て続けてゆくことに限りない生きがいを感じている。

新見 隆(にいみ りゅう)
県立美術館長
武蔵野美術大芸術文化学科教授

大分合同新聞 平成27年5月18日朝刊掲載