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OPAMブログ

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大分のアート立国、文化リテラシー物語  その三十四

寄稿 2016.02.22

新見隆「鉄輪 柳屋 梯シェフの料理と旧旅館 冨士屋前の古い石畳」

新見隆「鉄輪 柳屋 梯シェフの料理と旧旅館 冨士屋前の古い石畳」

 僕は美術大学で教えているが、美大出身ではない。じゃあ美術はどこで学んだのか? そう聞かれると、習ったことはないと言うと驚くだろうか?
 母方は広島県東端の備後国の古い港町、尾道の職人の出だ。山が海から迫り、家々の連なる坂を下って、町がミニチュア玩具のように広がる。寺の軒下や海産物倉庫、船着き場の雁木(がんぎ)の石段、狭い路地の奥が遊び場だった。坂の起伏や潮に流されるフェリーの揺れ、造船所ドックのつち音など、全ては体にいまだに染み付いて離れることはない。
 アートはこの町そのものから体で習ったと僕が言うと、「格好良すぎるんじゃないか?」とやゆされそうだが、実は本当だ。この町は今で言うカルチャー・ツーリズムの元祖だ。
 町中に画廊や画材屋、画廊喫茶なるものがあった。「放浪記」で売れっ子作家になった林芙美子、「暗夜行路」の時任謙作(小説の主人公で、作者の志賀直哉も一時暮らした)、古くは竹田の豊後南画のリーダー田能村竹田と親しかった歴史家の頼山陽がいた。「時をかける少女」の大林宣彦監督、大ヒット漫画「沈黙の艦隊」のかわぐちかいじさんらは大先輩に当たる。
 学校では「絵がうまい」子どもが飛び抜けて羨望(せんぼう)を集めたし、「絵の町」コンテストは日常茶飯事。町そのものがいわゆる“風光明媚(めいび)なビーナス”なので描くのは当然だ。日曜画家や子ども、洋画の小林和作ら画壇の長老まで市民皆がいわば芸術家だった。
 生まれ育った通りにはおけ屋やトタン屋などの職人が軒を並べていた。母の叔父は看板屋で、作業場のノコギリやカンナを遊び道具に育った。母は洋裁店を営み、針子さんがいつも忙しく働いてにぎやかだった。
 今に至るまで、上着は母の手作り。うらやましがられるが、戦後当分は店で売っている洋服などなかったから、母親が全てミシンで縫ったのが普通だった。
 料理も上手な母はパイ包みのホウレンソウのクリーム煮、グラタン、シチューなどハイカラなものを作った。貧しかったので安い鶏屋にお使いに行かされた。いまだにチキンカツは大好物。中学1年から大学4年までは男子寮に暮らし、食渇望の11年間で「食トラウマ=異常に食べ物にこだわるのと、窮乏を救ってくれたインスタント食品や缶詰に目がない」人間になってしまった。詩を書くのや本が好きだったので、大学は文学部を選んだ。
 生涯一学芸員だが、作家として食べ物のスケッチ(食べるとすぐなくなって寂しいので絵を描くようになった)や、コラージュ(箱の中にミニチュアな小宇宙を造形)、母の端切れで人形を作って個展もやる。
 これらは僕にとって「展覧会」を企画するのと同じ創造行為であって、「美しいもの、すてきなもの、おいしいもの」全てのビーナス性への憧れを雑多に詰め込んだもの。文学、音楽、美術、食、五感が混ざり合った自分の分身である。
 「生き方や生活」自体が文化であり、芸術であるというのが信念。ミュージアムはむろん、素晴らしいもので、ぜひ県民の皆さんにもっともっと、気楽に遊びに来てもらいたい。
 「きれいだ」「美しい」「おいしい」。芸術やアートは何でも心動かされるものを見つける気持ちにも潜んでいる。それに気付いた人は既にして詩人であり、アーティストだ。だから誤解を恐れずに言えば、詩や絵、彫刻なんて誰にでも作れる。
 さあ今すぐ県民全員アーティスト、「大分ビーナス計画」を始動させよう。

新見 隆(にいみ りゅう)
県立美術館長
武蔵野美術大芸術文化学科教授

 大分合同新聞 平成28年2月22日朝刊掲載