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「アートも食も」 県立美術館長の大分ビーナス計画 その一

寄稿 2016.07.02

昨年11月に別府市鉄輪で開かれた県立美術館出張コンサートでピアノ演奏を披露する西井葉子さんと鉄輪スケッチ大会の様子を描いた新見館長のドローイング

昨年11月に別府市鉄輪で開かれた県立美術館出張コンサートでピアノ演奏を披露する西井葉子さんと鉄輪スケッチ大会の様子を描いた新見館長のドローイング

「おんせん県」という、ちまたにも流布された名文句の上に、今後も大分県は活性を続けていく。観光はそれに関わる人にとっての生きる糧、ビジネスであるとともに、文化としての側面もまた重要だ。
誰が言ったか忘れたが、元来字のごとく「観光」とは「光を見る」ために旅することである。江戸時代のお伊勢参りや、欧州のキリスト教にまつわる聖地巡礼など、共同体を代表して誰かが神々しい光に預かるために遠く旅し、その縁を「土産」として持ち帰って、仲間たちに配ったらしい。
この構造は今も変わらない。旅して非日常空間や体験に浸ると、人は心身からリフレッシュして再生される。そうして元気になって新たな気持ちで日々の暮らしに立ち向かう。観光とは不思議にも、アートの本質をも言い当てている。
英語で「サイトシーイング(観光)」は、「サイト(場やその光)」を「シーイング(見に行くこと)」で、今日言われている「カルチャーツーリズム(文化観光)」は、この観光をもっと深く広い視点で捉えようとする運動、「深い観光(ディープ・サイトシーイング)」への欲求にほかならない。
大分県の温泉を「温泉文化」として捉え、それを今日的にビジュアル化する必要がどうしてもあると感じ続けてきた。「けがした鹿が温泉でその傷を治した」という類いの古説が物語るように、温泉は元来病気治癒の効用のために発生したものが、後に娯楽や観光の形に広がったものだろう。
僕が専門とするのは欧州の世紀末芸術である。産業革命や市民革命が18世紀終わりに起こって100年、都市を中心とした産業消費社会が形成された。非常に驚くのは一般的に世紀末と呼ばれる19世紀末には、さまざまな科学の発見で世界が格段に広がったことと同時に、それに伴う新たな問題や摩擦がいち早くまん延し、世界そのものが既にして崩壊の危険にさらされたことだ。
それは今日僕らが直面しているさまざまな問題である公害や環境汚染、犯罪の多発、精神的ストレス、時代の不安、戦争の恐怖など、全てが既に、この100年以上前に胚胎していたと言って過言ではない。
僕が面白いと思って勉強しているのは、それら都市社会の諸問題に「背を向け」、文明が生んだ問題だらけの都市を「逃れて」、郊外の田園の中に自分たちの新しい暮らしを夢見て移り住んだ芸術家たちの一群。彼らが世紀末に欧州全体に広がった「芸術家村(アーティストコロニー)」を形成していったことだ。
研究や書物も多く出て、1960年代から70年代の対抗文化(カウンターカルチャー)の元祖のような世紀末運動こそが、実は近代のテクノロジー(産業化とそれが与える利便性)最優先の社会の進み方に対し、大きく疑義を唱える「ポストモダン」運動の先駆と考えられている。
研究者マーチン・グリーンによると、例えばスイス国境に近い、北イタリアのマジョーレ湖岸の小さな村「アスコーナ」は、後に「真理の山=モンテ・ベリタ」と呼ばれ、芸術家村の聖地として知られるようになった。だが元々は当時重い病としてまん延していた結核療養のための「サナトリウム(治療所のある地域)」として出発したという。
そこにドイツのマッチョな家父長社会に反発してドロップアウトした元祖ヒッピーたちが住み着いた。それからあらゆる面白い奇人変人の芸術家思想家たちが訪れる。20世紀ダンスの革命家イザドラ・ダンカン、神秘思想家ルドルフ・シュタイナー、東洋に傾注した小説家ヘルマン・ヘッセらが集った。
翻って、僕は大分のこういう「治癒=文化=温泉」というルーツを掘り起こしながら、それを現代に新しい形でよみがえらせる文化運動を県全体で起こせないものかと考えている。今回始まる連載はそのことを読者の皆さんと考えるチャンスにしたいと願っている。

新見 隆(にいみ りゅう)
県立美術館長
武蔵野美術大芸術文化学科教授

 大分合同新聞 平成28年7月2日朝刊掲載