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OPAMブログ

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「この世にいない人を描きたい」 -髙山由紀子さんとの対談。

寄稿 2018.08.07

7月8日 座談会にて髙山由紀子氏と

7月8日 座談会にて髙山由紀子氏と


「私は父に、この不思議な女性たちについてたずねたことがあった。幻想の中の女性たちなのか、憧れなのか、それともイメージの象徴なのか。父は、答えた。「僕は、この世にいない女性を描きたい」」。(髙山由紀子『父 髙山辰雄』(角川書店、2011)

[ 率直で深い、洞察の人 ]
  僕は、もちろん髙山辰雄画伯とは、面識がない。
  大分に来るようになって、開館展の時に、初めて、一人娘の髙山由紀子さんにお会いした。脚本家、シナリオライター、すっきり端正な作風をもつ特異な映画作家でもあって、とくに僕らの企画した開館展に、どういうご感想を持たれるか、大いに興味があった。そして、少しく、恐れてもいた。
  というのは、開館展の、僕や学芸員の取った手法、「時空を超えた、作品どうしの出会い」を演出する手法は、旧来の、時代別、作家別、素材別の展示に慣れていた大分の美術愛好家を、少なからず、戸惑わせたようだったからだ。
  手前味噌ではなく、髙山由紀子さん(彼女は、先生と呼ばれても当然なキャリアと年齢であるが、それを極端に嫌っておられる)に、「ああいう、思い切った展示が出来る館長(もちろん、僕ら学芸員皆のことだが)が、来てくれてほんとうに良かった」と言われたのには、驚いた。そして同時に、他にいろいろと話された、直裁で衒いのない話し振りに、僕は、「この人は、ほんとうに素敵な目と心をもった芸術家だな」、と一瞬にして魅了されてしまった。
「大分人は、奥床しいですよ」(本音は、「荒っぽい僕ら広島県人と違って」という意味でもあったけれど)と僕が言った時も、いろいろ思われることがあったのだろうか、最初は「そうでしょうか?」と小首を傾げられ、「九州でも、外海の、武断的マッチョな気風じゃなく、瀬戸内の柔らかい文化的な空気がある訳でして」というと、「それはたしかに、そうでしょうね」と、頷かれた。
  由紀子さんは対談の後に、大分合同新聞の文化記者、佐藤栄宏さんのインタヴューを受けたのだが、傍できいていて、本題が終わった佐藤さんが、一生活人として、一人の親として、子供の教育や大分県の将来について、率直な彼なりの意見や疑問を世間話的に漏らすのを、誠実に耳傾けながら、「心の豊かさが、人間の幸福のすべて」、「制度や、仕来り、常識に捉われない、自分の視点を持つことがいちばん大切」とお二人は互いに共感して、一つひとつに丁寧にご自分の意見を彼女が述べられるのをきいて、またまた驚愕した。
  それは、常識に捉われて自由でない人、冒険心のない人が嫌いな(そういう人に大分県人だけはなって欲しくない、と思う)僕自身の、「我が意を得たり」的共感でもあったので、少しく気恥ずかしいことでもあったのだが、、。

[ この世ならぬメッセージ-髙山絵画の本質 ]
  もう一つ、いちばん気になったのは、髙山画伯の画業や暮らしぶりをずっと見つめて来た、一人娘である髙山由紀子さんが、髙山絵画の本質をどう、とらえておられたか、ということであった。
 むろん、その素晴らしいご著書である、『父 髙山辰雄』を、僕も読んだ。そこから、いろいろな、大きな感銘を受けた。
  一般には、髙山は日本画家として、「人物、人間の画家」、と言われる。
   郷里の先輩、福田平八郎のように、髙山もまた、日本画家には珍しく、いわゆる「歴史画」がほとんど無い。福田が身辺の花や鳥や水辺などの、小世界、ミクロコスモスにじっと静謐な眼差しを向けて、日本画のモダン近代運動のメルクマールとなる画期的な仕事を成したように、髙山もまた、市井の人間たち、その一人ひとりを、涼やかで恬淡とした眼差しで、生涯、執拗に描いた。
 自らもいろいろなところで言っているように、「人間を描きたい」という一つの執念が、髙山を、「絵描きのなかの絵描き」としての真骨頂、画家人生そのものを支えた、宿命的な欲求だったということになる。だが、そこにはまた別の問題もあって、大先輩の先達も多い美術界の名だたる評論家、批評家たちが、髙山論を繰り広げているのだが、さほど網羅的に読んでいないとはいえ、誰しも、何か髙山絵画の本質を言い当てることに、かなり逡巡し、苦労している様子が窺えるのであった。
  それだけ、髙山絵画の実相が、僕ら批評家の言語を超えて、屹立していた、と言えばいえる。だが、そこで引き下がっては、学芸員魂がすたる、傲岸不遜と言えばいえるが、髙山絵画との付き合いがそう長いとは言えない、しかも日本画を専門ともしない僕は、そう、それでも反骨的に考えた。冗談で付け加えると、奥床しくもない、広島県人だからだ。
  髙山絵画は、長く、一種、僕ら学芸員への挑戦だったのではないか。
「俺の本質を、言い当ててみろ」、そう、絵画が、そしてそこに描かれた一人ひとりの人物が、あの涼やかな目で、挑んでいるように、僕には感じられた。
  そして、結句、僕は今回の包括的な髙山辰雄回顧展、「人間・髙山辰雄展 森羅万象への道」の図録巻頭に、無謀にも一つの試論を書いた。
  タイトルは、「風景を超えるもの-神人一体の、絵画という場」である。
  簡単にいうと、ここで言いたかったことは、二つある。
  一つは、髙山絵画において、あの厚いマチエールと広がりをもった背景は、じつは、人物以上に重要な主題、「描くべき対象」であったのではないか、ということ。もう一つは、人物は、すべてというか、ほとんどは、異界の人物であって、髙山絵画の本質は、霊界、この世の外からのメッセージを伝えることであったのではないか、ということ、この二つのことに尽きる。
  霊界、異界というと奇妙にきこえるかも知れないが、それは神に属する「絵画という場」つまりは、自然とか宇宙とか、今回の展覧会のサブ・タイトルでいうところの、森羅万象その全体を統べる宇宙的な何ものかであって、絵画という現象を、現実世界と、そういう霊界のそのまさに境界での出来事とみると、神(というか、宇宙、森羅万象)である「風景=背景」と、人である人物が、一体になること、その高みと深みを求める執念こそが、髙山絵画の、あの不可思議な凄みの由って来る源になっているのではないか、というのが僕の直感であった。
  それは、日本画が専門とか、髙山個人を生前に知っていたとかいないとかに関わらない、美術だけに生涯を費やして来た、一学芸員としての、僕の生涯を賭しての「直観」であったものだ。
  その、一見は型破りな僕の原稿についても、髙山由紀子さんがどう思われるかが、むろん、気になっていた。
  由紀子さんは、世田谷での内覧会の時にはお互い挨拶に忙しくほとんどお話出来なかったのだが、大分で久し振りにゆっくり時間があった時に、「ああいう風に、若い人に向けて、新しい髙山像を、書いてもらって良かった」と、たしか、記憶ではおっしゃったと思う。
  ただ、それをほんとうに、僕がああいうように書いて、たしかに間違ってはいなかったのだ、と確信したのは、由紀子さんが「人間・髙山辰雄を語る」として、僕や学芸員吉田さんの質問などに答える、翌日の特別座談会を持った時だった。

[ 「日本画」を超えて ]
  これも僕の持論だが、もう今時、ジャンル、素材の別で、絵画を区別する必要は無い、というのが、OPAMでも、どうしてもやりたい、次世代の美術愛好家に理解して、進んでいって欲しいと思っている方向性だ。もちろん、歴史的経緯や背景、ほんとうに技法や材料が違っていることを知ったうえでの、話ではある。
  芸術の奥底には、そして一個いっこの傑作の根の部分には、洋の東西、歴史の古い新しいにかかわらず、普遍的で超越的な「共感」や、「共有性」がある、それを見出し、楽しみ、面白がることこそが、「美術史のお勉強の教室ではない」、ミュージアムの醍醐味ではないか、と僕は思っている。
  だから、そういう思いで、開館記念の大展覧会を二つやったのである。
  今回の髙山展は、ご承知のように、我が県立美術館が、世田谷美術館と共同で企画し、展観じたいは、世田谷がはじめ、そして巡回して、OPAMで現在開催中のものだ。髙山さんの出身地大分と、長く過ごした成城のあった世田谷で、開催した訳で、企画を中心的に担当したのは、世田谷の学芸員、池尻豪介さんと、当館の吉田浩太郎さんである。ちなみに、美学美術史専攻の吉田さんは、慶應義塾の僕の後輩、髙山由紀子さんは、東洋史専攻で、大先輩にあたる。
  髙山辰雄は、また、良くも悪くも、日展という舞台を活動の場とした。
  これは謂わば、近代日本に固有の日本的アカデミーの場であって、それを発表の場にしたということはまた、髙山絵画の宿命の一部になっていると思うのだが、ここでは詳述しないでおこう。
  しかし、本展のチラシの文言にもあるように、髙山辰雄は、その先輩たる、東山魁夷、杉山寧と並んで、「日展三山」と称されて、つねにその動向、つまりは秋の日展作によって、日本美術界を睥睨する地位と、そしてその新境地を求められた。
  その中期の代表作、今回の出品作であり、畢生の傑作、無神論者(?と言い得るかどうかは、判断を要するが)であった髙山の、幼い頃からの、宇宙や天体、つまりは「人間の作家」であった髙山のもう一つの情熱「人間を超えたもの」を描く、その一つの頂点をなす「穹」について、由紀子さんはこう、述懐している。(註1)

  「 毎年十一月は日展開催の時期である。美しく色づいた上野の山に散り初めた落ち葉を踏んで、美術館に行くのは、幼い頃からくり返された慣例であった。一室から見始めて、そしてその壁面に近づいてゆく。第七室、東山魁夷、杉山寧、髙山辰雄の並ぶ壁面なのだ。一九七五年、会場が都美術館の新館になってからは五室になったが、三人の絵が並ぶことは同じだった。
    一九六四年、この年、私はその壁面の前で「あっ」と声をあげていた。向かって中央が杉山寧。右が東山魁夷。左が辰雄だった。父の絵は群青の空に巨大な月が浮かんでいる。月が浮かぶというよりは、巨大な天体が浮かんでいるという言葉の方がイメージに合っているかもしれない。球体に描かれた月なのだ。月食の時、月が完全に隠れてしまうと、突如ごろんと重たげな球のように見えたりする。そんな重力を感じさせて輝く月、宇宙空間に浮かぶ天体、、、。題名は『穹』である。」(『父髙山辰雄』)

髙山辰雄は、後年「日月星辰」というタイトルで、それこそ、「神人一体となった」宇宙的人間群像の大作に取り組んだ。
またそれは、中期の傑作であるあの「朝」、それこそ、ゴーギャンの畢生の大作、あのボストン美術館にある「私たちはどこから来たのか、何ものなのか、どこへ行くのか」の向こうを張った、宇宙創成、世界の始まりの瞬間を描いたような大作から、通じているものだ。
これも由紀子さんからきいたことか記憶が定かではないが、髙山が、大きい画面の大絵画を好んだのは、若い頃からのいっかんした好みだったようで、それも、「神人一体」の宇宙創成、それを敢えて言えば、「絵画の誕生」の起源へと遡る、髙山ならではの、起源的欲望であったのではないだろうか。
僕は、大分出身の磯崎新さんが、別府のビーコン・プラザの設計に際して、髙山に依頼したかの壁画、「別府湾」こそに、その宇宙的人間、人間と混じり合った自然、というものの境地が込められてある、とまた、感じる者でもある。
自画自賛でまた申し訳ないが、由紀子さんはまた、吉田さんと僕がやった今回の展示も、「大分県美には、いつも独特な、他とちょっと違う、展示の持ち味がありますね。髙山の絵が、日本画じゃなく、新鮮に見えますね」、と褒めてくださった。
というより、大先輩の世田谷美術館館長の酒井忠康さんが、こう書いておられるように、吉田さん池尻さんはじめ企画を担当した学芸員の意図もそこにあったのではないか、と思われるのであった。
「現代日本画家のなかで、わたしは日本画そのものを内側から変革させることに、生涯を賭したという点に焦点を絞ると、髙山辰雄は、まっさきに指を折られる画家ではないかと思っている。」(あいさつにかえて『人間・髙山辰雄展 森羅万象への道』図録)

 [ 最後に、「畏れ」を。]
髙山由紀子さんによると、髙山は、制作中、幾度となく、画室を訪れる由紀子さんに「どう?」とその意見をいつも、きいたそうだ。そして、髙山が深夜の制作中、奥さまはつねに隣の茶の間で終わるまで寝ずに、待っておられたそうだ。
僕が「それは、ちょっと今風に言うと、完全に奥さん依存、家族じゃないですか!?」と言うと、「いつも、辰雄という落款の隣に、やゑ(夫人名)という名を記すべき、と私は思っていました」と微笑まれた。
僕は、また髙山の収集家でもある美術界の畏敬する人物から、髙山本人に、ある時「ところで、あなたは僕の絵のことを、ほんとうはどう思っているの?」と真顔できかれて驚いたことがある、ときいたことがあった。
無類の映画好きであった髙山。酒を一滴も飲まなかった髙山。どこへ行くにも、スケッチブックを手放さなかった髙山。散歩と喫茶店を好んだ髙山。世界を、自分の目と心でとらえようと、日日苦心し、楽しんだ髙山。
髙山辰雄は、じつに誠実無垢に、ほんとうに、「絵画とは何か」だけを知りたくてそれだけを追求し続けた、「絵描きのなかの絵描き」であった。
それは、絵を描くのが好きな「宇宙的子供」がそのまま、「描いて描いて、描き倒す」、希有なる生涯を全うした、無類に幸せな人生だったともみえる。そして彼はまた、いつも常に、「もっと何か」、あるいは「これでほんとうに良いのか」と自らと世界じたいに怯え、謙虚に、芸術に向かって、自らの仕事に向かって、畏怖するような、希有なる人間であった、と僕には思えて仕方がないのであった。


 (註1) 
同じ、『父 髙山辰雄』に、髙山臨終の際の、こういう文章がある。だが、僕は、以下に由紀子さんの語ることは、それこそほんとうであって、事実だろうし、それに異論はない。だが、髙山の仕事をみるとき、それが、一般的に言われる意味での、「無神論者」であったとは、とうてい思えないことも、いっぽうであるのだが。
「 私も息子も決してあの世を信じているいる人間ではない。父もまた信じてはいなかったと思う。自分の命の尽きるとき、この世も世界も宇宙も全てが無くなるのだと常に言っていたことを思い出す。」