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OPAMブログ

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大分のアート立国、文化リテラシー物語  その五

寄稿 2013.09.23

 広島で原爆で亡くなった方々の遺品を写真に撮ったアーティスト、石内都さんの話を先月したので、今回は南アフリカのヨハネスブルク生まれの畏友、スティーブン・コーヘンの話をします。

 お分かりになる方もいるでしょうが、コーヘンというのは、ユダヤ系の人に多い名前で、スティーブンの一族もユダヤ系です。

 3年前にスティーブンは、あいちトリエンナーレという国際的なアート展に招待され、その期間、第2次世界大戦直前にリトアニアの領事だった杉原千畝さんにささげた、素晴らしいパフォーマンス映像を制作しました。
 アウシュビッツやテレジンなど、当時ドイツ支配下にあった東欧の国々に造った強制収容所で、ナチスの行ったユダヤ人の大量虐殺をホロコーストと呼び習わしていますが、ナチスはドイツ国内でも、当然そのことを隠匿していました。

 杉原さんという日本領事は実に偉大な方で、特殊な情報経路から強制収容所で行われている残虐な行為を察知し、日本政府に無許可で独自な判断によって、ユダヤ人2千人にビザを発行して、リトアニアに逃がした日本人として知られています。

 記憶が間違っていなければスティーブンの両親も、杉原さんにリトアニアに逃がされたものの、次第にナチスの手が伸びて来たので、最終的に南アフリカに移住、避難した方々だそうです。

 南アフリカというと、一般の理解でも、一部の欧州系白人の人々が入植して、ダイヤモンドをはじめ、豊富な鉱物資源を現地の人々を使って採掘して、巨万の冨を得ながら、それを現地の人々に還元せずに、逆に徹底的に差別した国、いわゆる「アパルトヘイト」(有色人種差別)という許し難い政策を敷いた国として知られています。
 若きガンジーが、この国の状況から多くの負を学んで、インド独立運動に身を投じたことも有名です。

  華麗に化粧して、ハイヒールを履いたスティーブンが、クリスタルのガラスのいっぱい付いた大きなシャンデリアを背負って、ゆっくりと静かに、ほほ笑みながら踊っています。

 場所はヨハネスブルクのスラム街。しかも高速道路の建設で強制立ち退き、今まさに政府の手によって、ブルーシートやトタン屋根で小屋掛けした小さな、ひしめき合う現地の人々の家が打ち壊されています。怒号、悲嘆、泣き叫ぶ人々、最後は地面に力なく座り込む老婦人や女性、子どもたち。

 あざけられても罵倒されても、スティーブンは静かにゆっくりと踊り続ける。今ここで、自分たちのなけなしの家がなくなって路頭に迷う、今日の食べ物もない人々のために、ひたすら踊り続ける。スティーブンの代表的パフォーマンス「シャンデリア」です。

 やがて夕方になって薄暗闇の中に、彼のシャンデリアがボオッとほのかに輝き始め、彼の周りに人垣ができます。
 「きれいだね」「美しい」と子どもたちの小さなささやきがします。 「イエスさまじゃないかね、この人は」「私は生まれてから、きれいなものを一度も見せてもらったことがないから」と老婦人がつぶやきます。
 小さな歓声、やがて大きな拍手が起きる。今日、家も仕事も食べ物もない人々から。

 僕はこのシャンデリアの話を、大学の1年生の最初の授業でします。
 スティーブンは、僕のかけがえのない友人、そして偉大なアーティスト。彼は、政府に働きかけてスラムの取り壊しをやめさせたわけでもなく、ボランティアとして食べ物や着るものを持ってきたわけでもない。

 ただ彼のできるアート、踊ること、きれいなものを見せること、ただそれだけを、必死でやった。芸術の真の姿、そして底力。

 彼はアートという自らの使命に、徹底して真剣で忠実で、必死懸命の人です。
 笑える話ですが、あいちトリエンナーレの1カ月余りの制作滞在中、ほとんどカップラーメンしか食べなかったというスティーブンに、大分のおいしい魚を食べさせたいと、僕は心から願っています。

新見隆(にいみ りゅう)
武蔵野美術大学芸術文化学科教授
大分県芸術文化スポーツ振興財団美術館開設担当理事

大分合同新聞 平成25年9月23日朝刊掲載