生誕110年 宇治山哲平にみる「やまとごころ」[上]
2020.11.07
版画から「生涯かける」油絵へ
福島繁太郎の高評価
○△□のシンプルな形と鮮やかな色の組み合わせにより独自の抽象絵画作品を生み出し、近代日本美術に大きな足跡を残した大分県日田市出身の洋画家 宇治山哲平(1910~86)は、江戸時代、幕府直轄領の西国筋郡代(代官)の膝下の町として栄えた日田市豆田町で、郵便局や米穀薪炭業を営む家に生まれ、月隈公園や長福寺、近くを流れる花月川で水遊びをするなどして幼少期を過ごしました。物心つく頃から、好きで、水彩画を描き始め、中学生の頃から版画に取り組み、日田郡立工芸学校卒業後も、漆器の仕事をする傍ら、制作を続け、国展などの展覧会にも出展しました。
1938年4月、宇治山は大きなターニングポイントを迎えます。初めて見に行った国展会場では、油絵が各室の壁面にゆったりと展示されているのに対し、版画の部は小さな一室をあてがわれているだけで、しかも、宇治山の自信作《錦渓》は、二段掛けという、あまりにも悲惨な情景を目にしたのです。「版画は生涯をかけるのに、ふさわしくないのでは……」といった疑問が頭をもたげた宇治山は、この出来事をきっかけに、油絵に転向します。
油絵に転向した宇治山は、翌年の39年、早速、油彩画の《山腹》と《冬山》の2作品を国展に出品。初出品ながら、その2作品は見事に入選を果しました。ただし、2点のうち、《山腹》は審査員の全員一致で入選したものの、もう1点の《冬山》は、当時美術界の指導的位置にあり、優れた審美眼と卓見により多くの人の尊敬を集めていた美術評論家 福島繁太郎(1895~1960)の目に留まったことによる「責任支持」での入選でした。その後も、福島は宇治山を高く評価し、福島が運営する「東京・フォルム画廊」(東京・銀座)で51年から、福島が亡くなる前年の59年まで、毎年1回、宇治山の個展を開きました。
宇治山は、《山腹》《冬山》の入選を聞いた時から、福島を師と仰ぎ、画業に取り組みます。 大分県立美術館(OPAM)で開催中の「宇治山哲平にみる『やまとごころ』」展では、幼少期の絵画や20代後半まで取り組んだ版画作品、《山腹》や《冬山》のほか、37年から1944年頃まで約7年間、福岡の福岡日日新聞社(現・西日本新聞社)に勤めた後、郷里の日田に戻り、好んで描いた「蓮」や「石」、宮崎市の「鬼の洗濯板」や「鳥取砂丘」を題材にした絵画作品、さらには、師と仰ぐ福島に捧げるために描かれた《石の華》などをご覧いただけます。
(大分県立美術館 主幹学芸員 宇都宮壽)
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3回にわたって、「宇治山哲平にみる『やまとごころ』」展の見どころを土曜日の紙面で紹介します。
宇治山哲平 Photo by Susumu Murakami |
宇治山哲平《田舎の停車場》(1930年、大分県立美術館) |
宇治山哲平《冬山》(1939年、日田市) |
宇治山哲平《石の華》(1961年、日田市) |
西日本新聞 令和2年11月7日(土)朝刊掲載