2021.06.05
県立美術館(大分市寿町)で開催中の「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」(大分合同新聞社共催)。
同展を鑑賞したカモシカ書店(大分市中央町)店主、岩尾晋作さんに寄稿してもらった。
虚実の関係が明白であるトレースによって、佐藤雅晴は無意識にも映像にモザイクを施している。
そこで何が秘匿されているのか? そもそもトレースは、もっともモザイクから遠い作為ではないか?
「我々の想像力が儀式をその目的から引き離すが早いか、儀式はこの厳粛味を失う」とフランスの哲学者ベルクソンは著書「笑い」で指摘した。佐藤は、人物から汗やしわを、食べ物から匂いや油を、構造物からは歴史を脱落させながら対象の物理的表層をトレースする。そうして秘匿したのは対象の「存在」ではなく、対象の持っていた「厳粛味」だ。
悲劇といってもいいが、大切なものはいつも欠性的、つまり「無いこと」や「無くなること」によってはっきりと認識されるものなのだろう。
何気ない日常、友人、国会議事堂。福島の風景、除染に使う土のう。
厳粛味、または厳粛であるべきらしいもの、を再び意識させられたわれわれが、どのようにそれらを再構築させるかを問われている。
作品「Calling」は誰もいないところで誰のものか分からない電話が延々と鳴り続けるが、それは佐藤からの、あるいは芸術そのものからの、私への終わることのない問い掛けのようだ。
佐藤は晩年、2018年9月に余命3カ月の宣告、住んでいる家は老朽化のため19年3月までに退去指示をそれぞれ医者と大家から受けた。
余命3カ月の人間に、半年後に退去してもらうと言う。
現実はときに滑稽なもので、それは前者と後者がそれぞれ目的を引き剝がし合っているからであり、ここで失われている厳粛味は想像を絶するものがある。
同時に、自分の芸術がいかに普遍的であるかを、この状況を前にした感情とは別に、改めて感得している佐藤の芸術家としてのすごみが、私には伝わってくる。
展示の最後に、「now」という時計のような作品があり、佐藤のむき出しの静かな魂に触れることができた。
一番新しい涙の中には今までの悲しみや苦しみが全部入っている。そう思いながら秒針をずっと目で追いかけた。
▽企画展「佐藤雅晴 尾行―存在の不在/不在の存在」(大分合同新聞社など共催)は、大分市寿町の県立美術館で6月27日まで。
観覧料は一般800円、大学・高校生500円。
佐藤雅晴 《東京尾行》 (2015-2016年) |
佐藤雅晴 「死神先生」シリーズ 《now》(2018年) |
大分合同新聞 令和3年6月5日(土)掲載