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「国立国際美術館コレクション 現代アートの100年」展 大分合同新聞寄稿記事

展覧会 2022.07.28



絵本と現代アートの子ども NEW!
ザ・キャビンカンパニー 
 阿部健太朗・吉岡紗希
2022年8月13日掲載

 展覧会を眺め歩く。白壁に抽象画の連作3点が掛けられている。おや、と思い足を止めた。うるうると練り上げられた半透明の絵の具が、キャンバスの上で千紫万紅に光っている。
 だが、それにも増して目を引いたのは、この作品のタイトルだ。3点合わせて323字。とてつもなく長い。もはや文学である。絵に具体物は描かれていないが、この文とともに見ていると、物語が絵の中に浮かび上がってくる。まるで絵本のようだ、と感嘆していると、作者は岡崎乾二郎氏。「あっ! 犬と猫に読み語りをして『ぽぱーぺぽぴぱっぷ』という絵本を描いた方!」
 私たちは、岡崎氏を絵本の文脈の側から知っていた。岡崎氏は、造形作家・批評家であり、建築、映画、教育と多彩な活動を行う、日本の美術界をけん引する偉大な知の作家である。岡崎氏の作品に強く引きつけられたのは、私たちに絵本と現代アートの横断を好む癖があるからだろう。自分の作品を見返しても、絵本、立体造形、映像作品を、同一の感覚で制作していることが分かる。
 私たちが今のスタイルになった理由の一つに、10代の頃に読んだ数冊の絵本の衝撃がある。大竹伸朗「ジャリおじさん」、三沢厚彦「動物たち」、元永定正「もこもこもこ」という絵本なのだが、実はこれらの作家は皆、現代アートの作家でもあるのだ。絵本には、1956年に福音館書店が「こどものとも」を創刊して以来、編集者の松井直氏を中心に、画家や彫刻家など他ジャンルの描き手を起用して、絵本の幅を広げていったという歴史がある。
 一方、現代アートも60年以降、絵画や彫刻といった既存のジャンルが解体され表現の幅が広がっていく。そのような流れの中で生まれた絵本に感銘を受けて作家を志した私たちは「絵本と現代アートの子ども」といえるのかもしれない。
「はは~ん。自分たちがいつも枠からはみ出た絵本作家になりたいと願うのは、このためだったのかぁ…」などと、ゆらゆら考えを漂流させながら、現代アート100年の歴史の出口をくぐり抜けた。



夢を売る芸術家  
別府大文学部国際言語・文化学科特任教授 根之木英二先生
2022年7月22日掲載


 第2章の展示は視覚デザインの観点からも大変興味深い内容です。アメリカが第2次世界大戦を経てコマーシャリズムが隆盛になる時期の「現代」を創造した芸術は、広告制作出身のアンディ・ウォーホルをはじめとして、彫刻家ジョージ・シーガル、そして建築物などを布で包むプロジェクトで知られるクリストなど、当時のマス媒体の中でひときわ輝く独創的な表現が誕生しました。  
 その時代の特徴は、視覚イメージの広がりです。全米のテレビの普及率は1949年には0.4%でしたが、60年には87%と増えていき、日常の中にバーチャルな世界が入り込み、また同時に人々は日常をイメージと重ねて見るようになりました。  
 クリストが制作プロジェクト費用捻出のために「包まれたライヒスターク」などの構想スケッチを提示する時、その作品の購入者は完成をイメージし、さらにマス媒体での広がりを想像したと思われます。クリストは、そうして人々のイメージに働きかけて「夢」を現実のものとしていきました。
 クリストはユーモアと風刺の街として知られるブルガリアのガブロボの出身です。ガブロボにある国立美術館「ユーモアと風刺の館」を40年ほど前に訪れたことがあります。そこには独自の視点で集められた世界のユーモア絵画・彫刻・デザインの作品があり、日本の阿波おどりの観光ポスターも「ユーモアポスター」として展示されていました。このガブロボの風土が、クリストを自由な発想や社会を俯瞰する視点へと導き、そして視覚メディアの時代背景などがクリストという「夢を売る芸術家」を生み出したように思います。
 クリストをはじめとして、シーガル、ウォーホルなどによる私たちの視覚イメージを刺激する独創的な表現は、半世紀を過ぎても作品として色あせることなく、今もなお「現代アート」として私たちを創造の世界へと誘ってくれます。 


周波数の合わせ方
10 Coffee Brewers 代表 川平大介さん

2022年7月30日掲載

 新型コロナという劇薬に両足を奪われながら、世界中の人々が必殺技を使おうかどうしようかの瀬戸際を繰り返すそんな毎日。私たちが暮らす地球号「箱舟」は、「サステナブル(持続可能)な社会」方角へかじを切り始めたわけですが、一介の喫茶店店主である私の視界に入る景色は、もう少し足元周り。先日うかがった県立美術館の「国立国際美術館コレクション」での個人的な邂逅を通して得たエッセンスを地域にどう還元するか?なんてことを最近考えます。
 個人的には、現代アートって崇高な何かに触れられる「チャンネル」のようなものだと考えていて、周波数を合わせれば、彼女・彼らがそれぞれのアプローチでたどり着いたであろう「ライフハック術」の講義を受けられるポッドキャスト(インターネット音声配信)のようなイメージ。
 彼らをリスペクトできて、また人生のメンター(助言者)のように仰ぎ見られる理由の一つは「死人」までも敵に回して闘っているから。今回は72点の作品が展示されているわけですが、これらの競合は紀元前5千年のエジプトの壁画以降、2022年にまで至る間の7千年近くに生み出された全てのアートであるという見方もできますので。
 こう考えると私たちの日々は攻略不可能な「無理ゲー」ではないなと、いつも励まされます。人生は短く、望んだ場所・話してみたい人・全てに接続することは非常に困難ですが、アートを通して、時にタイムトラベルのように、さまざまな国、さまざまな人々のさまざまな思考にログインすることはできるのではないでしょうか? これが今こそ繰り出すべきタイムトラベル的必殺技の最適解だと思います。皆さんもぜひこの夏はOPAMへ。


1点だけ持って帰るとしたら
カモシカ書店店主 岩尾晋作さん

2022年8月6日掲載

 「意味が分からない」という現代アートへの疑問に対して「人は小鳥の歌を理解しようとはしないではないか」と指摘するピカソには説得力がある。
 ではOPAM(県立美術館)に行って何をどう見るか。僕は「1点だけ購入して持って帰るとしたら」と考えた。実はデュシャンの「トランクの中の箱」は、以前、古書市に出品されていたから市場価格が分かる。簡単には買えない値だ。当たり前だが妄想でいいのである。
 クリストも断言しているが「美しさ」は重要だ。単に「美しいもの」ではなく「美とは何か」と考えさせるものを選びたい。フォンタナの「空間概念、期待」は痛快でいい。絵が切り裂かれることで「物体」となる。絵は、実は壊れるものなのだとはっとする。マン・レイの「イジドール・デュカスの謎」はその逆か。物体であるはずが布に覆われ実体が見えず、手触りを脳内で絵のように想像するしかない。どちらも面白いが、毎日見るには難解に過ぎる。
 随筆家須賀敦子が愛したモランディ、かなり欲しいが1点では寂しい。大好きなイサム・ノグチの「黒い太陽」を選ぶと家の床が抜けるだろう。フルクサスやブレクトはパーツが細かいので、なくしものが多い僕には不向きである。
 僕は内藤礼の「死者のための枕」に決めた。何よりも優しい印象。素材の張りだけで小さく形状を保っている様が、奇跡的に残った骨董(こっ/とう)品のような存在の尊さがある。
304個のうちの1個、ぎりぎり買えはしないだろうか?と妄想している。

 

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