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「没後50年 福田平八郎」寄稿記事【3】

寄稿 2024.06.08

 大正後半から昭和の初めにかけて写実を究めた平八郎の作風は、その後、形態を単純化し、鮮烈な色彩と大胆な画面構成を特徴とする独自の装飾的表現へと向かいます。
 この展開をさらに後押ししたのが、1930(昭和5)年の六潮(りくちょう)会への参加です。新進気鋭の洋画家や日本画家、評論家たちとの交流を通して、平八郎はこれまでの創作を見つめ直し、伝統的な日本画の枠組みにとらわれない新たな表現に果敢に取り組むようになります。
 生活面でも大きな変化がありました。学生時代の恩師・中井宗太郎に勧められたことがきっかけで32(同7)年から魚釣りを始めたのです。以来、「1年の3分の1は釣りで過ごした」という時期もあるほど凝り、釣りは平八郎の人生にとってかけがえのない趣味となりました。
 釣りをきっかけにして生まれた作品は数多く、その第1号が32年の第13回帝展出品作「漣(さざなみ)」です。制作の発端は、ある不漁の日に湖畔でぼんやり浮きを眺めていると肌にも感ぜぬ微風が水面を吹き抜け、美しいさざ波を立てたことによります。一瞬でとりこになった平八郎は、絶えず変化する水の様相を必死に写生帳に写し取り、それを基に作品を仕上げました。銀地(プラチナ地)の画面に群青の太い線だけで波を捉えたその大胆な表現は、発表当初は問題作として物議を醸しましたが、近代日本画の新境地を切り開いた傑作として2016(平成28)年に国指定重要文化財になりました。
 1938(昭和13)年、平八郎は大分市の実家にアトリエを構え、しばらく滞在しています。その前年に体調を崩し、長年教授を務めていた京都市立絵画専門学校を辞した平八郎にとって、これは病気療養を兼ねたものでした。同年の第2回新文展出品作「青柿」は、この年に大分で写し取った写生を基に制作した作品です。平八郎は、描く対象から何を一番強く感じるかというと、形や線よりも先に色彩を強く感じると語っています。本作品においても、目に最初に飛び込んできたのは、強い日差しに照り返る柿の葉の鮮烈な色彩だったのでしょう。葉の形態は、青と緑を基調としたカラフルな色面により捉えられ、画面に軽快なリズムを刻んでいます。平八郎の作品に見られる豊潤な美的世界は、この類いまれなる色彩感覚により支えられていたのです。

(県立美術館主幹学芸員 吉田浩太郎)

令和6年6月8日 大分合同新聞掲載

 

《漣》 1932年 重要文化財 大阪中之島美術館蔵 【6月28日~7月15日展示】
《漣》 1932年 重要文化財 大阪中之島美術館蔵 【6月28日~7月15日展示】
《青柿》1938年 京都市美術館蔵 【前期展示】
《青柿》1938年 京都市美術館蔵 【前期展示】

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