2016.01.25
前回の「大分ビーナス計画=県民全員が皆アーティスト」というビジョンの続きを書きたい。この連載タイトル「リテラシー」というのは、何らかの専門的ジャンルに慣れ親しんでない人がどのようになじんで、使いこなしていくか、普通はそのノウハウを伝授するものと思われている。
アートにどのように触れるのか。体を動かし実験することで、一人一人が自分の新たな姿を見いだし、世界との関係を考え直して、世の中が面白くなっていく契機だと僕は思っている。
美術館は絵や彫刻などを見て、その美しさや面白さに触れて、心が沸き立つ場所だ。ところが、美しいと思う瞬間、その時点で観客は自分が「それだけ」にとどまっているのだから、美術プロの領域には参与できないと考えてしまう。
つまりその人たちは絵を描いたり、詩を書いたり、世の中一般で創作活動と思われる「表現をしていない」私は、「ただの素人」だと諦めてしまうのだ。
ところが僕はそれは絶対に違うと思う。アートに触れて、この訳の分からない芸術とは一体何だろうかと面白がって首をひねり、体で悩んだりする。それは結局、人とは何かを考える「ライフ・リテラシー=人生哲学」に通じていく。
昔の人には今の時代のような多岐にわたる情報や娯楽はなかった。彼らは草木や季節の花々、空、大気の変化に心を寄せて、体で感じ取った。
どこにでもある、誰にでも平等に与えられている、自然というものが、われわれはどこからきて、どこにいくのかということを教えてくれる、唯一無二の人生哲学の源泉だったわけだ。
人は皆アーティストだ。「空を眺めるアート」「人を好きになるアート」何でもよい。そして「生きている」ことそのものが全て芸術なのである。
千利休という人は日本の歴史上、最高のユニークな芸術家だ。お茶を飲み、人と語り、世俗の煩いから切り離され、子どもの自由な気持ちに立ち返り、宇宙と向き合う、世界芸術史上最もユニークなアート・リテラシーの形式を確立した。
2018年に大分県で開催される国民文化祭やOPAM(県立美術館)では、ジャンルや世代を柔らかく解体しつつ融合させ、21世紀にふさわしい「アート・リテラシー=人生の広くて深い楽しみ方」を模索していかなければならない。
19世紀末ロシアから出てパリで活躍した美術や新しいバレエの創始者にして一大芸術プロデューサーでもあったセルゲイ・ディアギレフという人がいる。「ロシア・バレエ」という革命的な総合芸術を創案し、芸術の都パリに殴り込んだ。ニジンスキーら不世出の天才ダンサーを育て、マティスやピカソを弟子のように使い、詩人コクトーや音楽家ドビュッシーら芸術史に残る名だたる俊英たちを思いのままに駆使しながら、新しい世界を開いた。
「県民全員がアーティスト」というユニークな運動を目指す以上は、国民文化祭やOPAMにも、21世紀の千利休とディアギレフが必要なのである。僕らキュレーターはまだ到底その域に達しているとは思わないが、彼らを目標としない僕の人生はあり得ない。
新見 隆(にいみ りゅう)
県立美術館長
武蔵野美術大芸術文化学科教授