コレクション

大分県立美術館のコレクションについて

 大分には、江戸期以降、数多くの美術家を輩出した、豊かな「浪漫派的」文化風土があります。
 「豊後南画」の礎を築いた田能村竹田、伝統的な日本画にモダンな切れ味を与えた福田平八郎や髙山辰雄、幾何学と色彩交響の抽象スタイルを確立した宇治山哲平、大正から昭和にかけて彫刻界をリードした朝倉文夫、竹工芸を芸術の域に高めた生野祥雲齋。いずれも、近代日本の美術を牽引した、真に偉大なる芸術家たちでした。
 大分県立美術館は、芸術会館が37年間にわたって収集してきた約5,000点にのぼる作品や資料を引き継ぎ、至宝として保管しながら、コレクション展等を通じて紹介するとともに、その魅力を広く国内外に向けて発信します。

大分の近世美術

 大分では、江戸後期から明治・大正にかけて南画文人画が大流行し、「豊後南画」として、特色ある地方文化を形作ってきました。
 その礎を築いた田能村竹田(1777-1835)については、書画はもとより、史家であった竹田を偲ぶ資料も豊富に収蔵しています。竹田に師事した高橋草坪(1804?-1835)や帆足杏雨(1810-1884)らに加えて、大分の各藩で活躍した絵師や学者、ゆかりの浮世絵師らの作品や資料も紹介します。

田能村竹田《高客聴琴図屏風》1822

文政五年の杵築旅行の折に描かれたもので、もともとは四面の襖仕立てでした。現在確認されている竹田の作品では最大級であるともに、南宗画法への本格的な取り組みを開始した頃の竹田の画法をよく示しています。第八扇と九扇にまたがる賛は頼山陽によるものです。 歌川豊春《観梅図》寛政期頃

定評のある歌川豊春の肉筆画のなかでも、高い評価を得ている大作です。江戸の名所であった亀戸梅屋敷の臥龍梅に取材したものと思われます。かつては臼杵稲葉藩に伝えられていた作品で、豊春の豊後臼杵出身説との関係からも注目されています。 高橋草坪《寒江独釣図》1832

豊後杵築出身の南画家・高橋草坪の代表作のひとつで、もとは四季山水図の冬景をなしていたものです。唐の柳宗元の詩「江雪」(千山鳥飛絶 万逕人蹤滅 孤舟蓑笠翁 独釣寒江雪)にある「寒江独釣」の景色は、多くの南画家が好んで画題としています。
田能村竹田《高客聴琴図屏風》1822

文政五年の杵築旅行の折に描かれたもので、もともとは四面の襖仕立てでした。現在確認されている竹田の作品では最大級であるともに、南宗画法への本格的な取り組みを開始した頃の竹田の画法をよく示しています。第八扇と九扇にまたがる賛は頼山陽によるものです。
歌川豊春《観梅図》寛政期頃

定評のある歌川豊春の肉筆画のなかでも、高い評価を得ている大作です。江戸の名所であった亀戸梅屋敷の臥龍梅に取材したものと思われます。かつては臼杵稲葉藩に伝えられていた作品で、豊春の豊後臼杵出身説との関係からも注目されています。
高橋草坪《寒江独釣図》1832

豊後杵築出身の南画家・高橋草坪の代表作のひとつで、もとは四季山水図の冬景をなしていたものです。唐の柳宗元の詩「江雪」(千山鳥飛絶 万逕人蹤滅 孤舟蓑笠翁 独釣寒江雪)にある「寒江独釣」の景色は、多くの南画家が好んで画題としています。
大分の近代日本画

 近代日本画のコレクションによって、明治以降の大分県の日本画の歩みを体系的にたどることができます。徹底した写実を体得して装飾的な画風を打ち立て、近代日本画史に大きな足跡を残した福田平八郎(1892-1974)と、生死を見つめ、存在の内奥に迫る画風で戦後の日本画壇をリードした髙山辰雄(1912-2007)については、数多くの代表作と、ユニークな素描や下絵などを多数所蔵しており、コレクションのハイライトとなっています。

福田平八郎《 水 》1958

絶えず表情を変える水面の魅力にとりつかれた福田は、生涯に渡って膨大な数のスケッチを残し、多くの作品の中で、様々に水の表現を試みています。この作品は、足かけ30年にわたる研鑽の到達点をしめすもの。自然の中に潜む神秘的な美しさを教えてくれる秀作です。 髙山辰雄 《食べる》1973

髙山は、1946年、1973年、1985年の三度、子供の食事姿を描いた「食べる」という作品を発表していますが、この作品はその2作目にあたるもの。シルエットによって映し出された幼な子の姿には、不安と孤独の影さえ漂います。生きることの意味を問い続ける髙山芸術の象徴的な作例です。 岩澤重夫 《冬陽》1984

岩澤の作品は、大自然の雄大な姿や、四季折々の風情をとらえた風景画が主体ですが、その中には郷里大分の景色がモティーフになっているものも少なくありません。この作品は、雪に覆われた九重高原に取材したもの。厳しい自然が見せる一瞬の幻想的な姿を鮮やかに写し取った、岩澤の代表作のひとつです。
福田平八郎《 水 》1958

絶えず表情を変える水面の魅力にとりつかれた福田は、生涯に渡って膨大な数のスケッチを残し、多くの作品の中で、様々に水の表現を試みています。この作品は、足かけ30年にわたる研鑽の到達点をしめすもの。自然の中に潜む神秘的な美しさを教えてくれる秀作です。
髙山辰雄 《食べる》1973

髙山は、1946年、1973年、1985年の三度、子供の食事姿を描いた「食べる」という作品を発表していますが、この作品はその2作目にあたるもの。シルエットによって映し出された幼な子の姿には、不安と孤独の影さえ漂います。生きることの意味を問い続ける髙山芸術の象徴的な作例です。
岩澤重夫 《冬陽》1984

岩澤の作品は、大自然の雄大な姿や、四季折々の風情をとらえた風景画が主体ですが、その中には郷里大分の景色がモティーフになっているものも少なくありません。この作品は、雪に覆われた九重高原に取材したもの。厳しい自然が見せる一瞬の幻想的な姿を鮮やかに写し取った、岩澤の代表作のひとつです。
大分の洋画

 大分の洋画界は、大正洋画壇で活躍した片多徳郎(1889-1934)を中心に、帝展や日展で活躍した具象系の画家たちと、佐藤敬(1906-1978)や宇治山哲平 (1910-1986)ら、在野の美術団体で独自のスタイルの確立に挑んだ画家たちとに分かれます。
 多様で個性的な、大分出身の画家たちの仕事を顕彰し、関連する内外の作家作品も併せて展示しながら、近代洋画の歩みを多角的に紹介します。

片多徳郎《午休み》1926

東京美術学校在学中から文展に入選し、早くからその画才が注目を集めた片多は、その後、南画的な情趣を込めた独自のスタイルを求めて制作に打ち込んでいます。この作品は、画業中期の帝展出品作。日本的な油彩表現を模索する片多の苦心の跡が伺える作例です。 宇治山哲平《王朝》1974

若い頃は漆芸を学び、木版画に打ち込んだ宇治山でしたが、その後油彩画に転じ、さらに40歳代半ばになると抽象的作風を示すようになります。この作品は、自らの抽象スタイルを確立して以降の代表的な作品。鮮やかな色彩と幾何学的形象からなるきらびやかな画世界は、日本的抽象として高い評価を得ています。 糸園和三郎 《丘の上の大樹》1991

戦前、シュールレアリスム傾向の新人として画壇にデビューした糸園は、その後、時代を生きる人間の心象にモティーフを求めながら、現代人の孤独や不安を詩情豊かに映し出して幅広い人気を博しています。晩年に描かれたこの作品には、故郷の小学校にあった巨木が、慈愛の象徴のように描き出されています。
片多徳郎《午休み》1926

東京美術学校在学中から文展に入選し、早くからその画才が注目を集めた片多は、その後、南画的な情趣を込めた独自のスタイルを求めて制作に打ち込んでいます。この作品は、画業中期の帝展出品作。日本的な油彩表現を模索する片多の苦心の跡が伺える作例です。
宇治山哲平《王朝》1974

若い頃は漆芸を学び、木版画に打ち込んだ宇治山でしたが、その後油彩画に転じ、さらに40歳代半ばになると抽象的作風を示すようになります。この作品は、自らの抽象スタイルを確立して以降の代表的な作品。鮮やかな色彩と幾何学的形象からなるきらびやかな画世界は、日本的抽象として高い評価を得ています。
糸園和三郎 《丘の上の大樹》1991

戦前、シュールレアリスム傾向の新人として画壇にデビューした糸園は、その後、時代を生きる人間の心象にモティーフを求めながら、現代人の孤独や不安を詩情豊かに映し出して幅広い人気を博しています。晩年に描かれたこの作品には、故郷の小学校にあった巨木が、慈愛の象徴のように描き出されています。
大分の工芸

 大分の工芸を代表する竹工芸のコレクションは、この分野で初めて人間国宝となった生野祥雲齋(1904-1974)を中心に、県内外の竹工芸作品を所蔵しており、国内屈指の点数と内容を誇っています。
 日田の小鹿田焼と河合誓徳(1927-2010)の陶磁、山永光甫(1889-1973)の乾漆、古澤万千子(1933-)の型絵染など、大分ゆかりの工芸作品を多数所蔵しています。

生野祥雲齋《陽炎》1958

祥雲齋は、1953年の日展落選を契機に、竹工芸の用途よりも造形に重きを置いた制作に取り組むようになります。この作品では、重層的に組まれた竹ひごがプリズムのような多面体を形作り、立ちのぼる空気の揺らぎや光の交錯のような効果を生み出しています。彫刻的な作品ですが、金属製の「おとし」が付属し、日展には花籃(はなかご)として出品されました。 古澤万千子《毬子春秋》1996

東京生まれの古澤万千子は、国画会の森義利に染色の基本的な技術を学び、芹沢銈介や柳宗悦、白州正子らにも師事して、主に国展で活躍。1971年大分市に転居してきました。この作品では、藍染めの紬地に、型絵染と絞染、描絵などの技法により、網目や手毬、八重桜、楓、蜻蛉、さらには良寛の漢詩の文字が、華やかに表現されています。 河合誓徳《 彩 》1990

河合誓徳は1964年頃から、制作の主体を陶器から磁器に転換し、陶彫的な作品や、独特の形の筥(=箱)や壺、陶板等に、花卉や郷土大分の風景を描いた独自の作風を確立しています。この作品には、由布市の塚原高原の秋景が、染付の青色、青磁釉の緑色、釉裏紅の赤色、顔料の黄色など多彩な色で描き出されています。
生野祥雲齋《陽炎》1958

祥雲齋は、1953年の日展落選を契機に、竹工芸の用途よりも造形に重きを置いた制作に取り組むようになります。この作品では、重層的に組まれた竹ひごがプリズムのような多面体を形作り、立ちのぼる空気の揺らぎや光の交錯のような効果を生み出しています。彫刻的な作品ですが、金属製の「おとし」が付属し、日展には花籃(はなかご)として出品されました。
古澤万千子《毬子春秋》1996

東京生まれの古澤万千子は、国画会の森義利に染色の基本的な技術を学び、芹沢銈介や柳宗悦、白州正子らにも師事して、主に国展で活躍。1971年大分市に転居してきました。この作品では、藍染めの紬地に、型絵染と絞染、描絵などの技法により、網目や手毬、八重桜、楓、蜻蛉、さらには良寛の漢詩の文字が、華やかに表現されています。
河合誓徳《 彩 》1990

河合誓徳は1964年頃から、制作の主体を陶器から磁器に転換し、陶彫的な作品や、独特の形の筥(=箱)や壺、陶板等に、花卉や郷土大分の風景を描いた独自の作風を確立しています。この作品には、由布市の塚原高原の秋景が、染付の青色、青磁釉の緑色、釉裏紅の赤色、顔料の黄色など多彩な色で描き出されています。
大分の彫刻・立体作品

 彫刻コレクションの中心は、大正から昭和前半にかけて彫刻界をリードした朝倉文夫(1883-1964)です。朝倉に学んだ日名子実三(1893-1945)の、彫刻や石膏像メダルなども豊富に所蔵しています。また、戦後、アヴァンギャルド運動の旗手として登場し、多彩な活動を展開した吉村益信(1932-2011)の作品も紹介します。

朝倉文夫《墓守》1910

朝倉は東京美術学校在学中から文展で受賞を重ねるなど、早くから頭角を現して注目を集めます。この作品はその頃を代表するもので、第4回文展で最高賞を受賞しました。徹底した写実技法で対象を的確に写し取ることで、堂々とした存在感のある人間像に仕上げています。 日名子実三《 女 》1930

東京美術学校で彫刻を学ぶかたわら、朝倉文夫が主宰する彫塑塾にも通って才能を開花させた日名子でしたが、その後朝倉の下を離れて仲間とともに「構造社」を結成し、時代に即した新たな彫刻のあり方を模索するようになります。この作品は、2年間のパリ留学からの帰国後まもなく発表されたもの。安定したバランスの中に動勢を表現した意欲作です。 吉村益信《反物質;ライト・オン・メビウス》1968

吉村益信は1960年、篠原有司男らとともにネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成し、過激な反芸術運動を展開して社会的に注目を集めますが、まもなく渡米し、帰国後は電球やネオン管を使ったライト・アートに取り組んで評価を高めています。この作品はその中でも代表的なもの。現代日本美術展コンクール部門で最優秀賞を受賞しています。
朝倉文夫《墓守》1910

朝倉は東京美術学校在学中から文展で受賞を重ねるなど、早くから頭角を現して注目を集めます。この作品はその頃を代表するもので、第4回文展で最高賞を受賞しました。徹底した写実技法で対象を的確に写し取ることで、堂々とした存在感のある人間像に仕上げています。
日名子実三《 女 》1930

東京美術学校で彫刻を学ぶかたわら、朝倉文夫が主宰する彫塑塾にも通って才能を開花させた日名子でしたが、その後朝倉の下を離れて仲間とともに「構造社」を結成し、時代に即した新たな彫刻のあり方を模索するようになります。この作品は、2年間のパリ留学からの帰国後まもなく発表されたもの。安定したバランスの中に動勢を表現した意欲作です。
吉村益信《反物質;ライト・オン・メビウス》1968

吉村益信は1960年、篠原有司男らとともにネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成し、過激な反芸術運動を展開して社会的に注目を集めますが、まもなく渡米し、帰国後は電球やネオン管を使ったライト・アートに取り組んで評価を高めています。この作品はその中でも代表的なもの。現代日本美術展コンクール部門で最優秀賞を受賞しています。

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