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「テルマエ展 お風呂でつながる古代ローマと日本」寄稿記事【中】
現代人にとって入浴は、日々の生活の中で欠かせない習慣となっていますが、日本でこの習慣が定着したのは江戸時代に入ってからです。
ただし、当時お風呂のある住宅を持つことができたのは、大名や大富豪などごく一部の人に限られていました。水や燃料が大変貴重であったことに加え、お湯を沸かすためにまきをたくと火事の危険性が高まるからです。庶民の多くは、毎日銭湯に通っていました。
江戸の銭湯は、徳川家康が江戸入りした翌年の1591(天正19)年に、伊勢与一という人物が現在の東京駅近くの銭瓶(ぜにかめ)橋近辺で開業したのが始まりとされています。当時、江戸の町は城下町造成工事がピークを迎え、街中は砂ぼこりがひどかったといいます。また地方からの肉体労働者も多く集まってきていました。銭湯はたちまち人気となり、急激な人口の増加とともに数を増やしていきました。慶長年間(1596~1615年)の終わりごろには、「町ごとに風呂あり」と言われるほど普及していました。
初期の銭湯は、現代のサウナに近い蒸し風呂でしたが、その後、少量のお湯を張った湯船に腰ぐらいまで漬かる半身浴スタイルの銭湯が現れ、江戸時代後期には現代と同じように肩までお湯に漬かる入浴法が定着しました。
本展では江戸時代後期の銭湯の模型を展示しています。江戸時代初期の銭湯は、男女混浴が一般的でしたが、風紀の乱れにつながるということで寛政の改革(1787~93年)以降は、男女の別が定着していきました。入り口ののれんをくぐると、脱衣場があり、そのまま洗い場へと続いていました。洗い場ではぬかを入れたぬか袋をお湯に浸して体を洗う時に使っていました。洗い場の奥には石榴(ざくろ)口と呼ばれる出入り口があり、その先に湯船がありました。石榴口は非常に狭く、かがんで中に入る必要がありましたが、これは湯船のお湯が冷めにくくするための工夫です。湯船のある部屋は、照明がなく湯気も立ち込めていたため、ほとんど視界がなかったといいます。お湯は裏の釜場でたいていました。強風の日は火事の危険があるため臨時休業することもあったようです。2階は、男湯からのみ上がれる構造となっており、男性専用の休憩所として利用されていました。当時の銭湯は、老若男女、身分の上下に関係なくさまざまな職業や階層の人々が日常的に利用しており、一種の社交場のような機能も併せ持っていました。
(県立美術館主幹学芸員 吉田浩太郎)
令和5年12月15日 大分合同新聞掲載