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2024年5月25日 寄稿

「没後50年 福田平八郎」寄稿記事【1】

 福田平八郎は1892(明治25)年2月28日、大分市に生まれました。少年時代から絵に興味を持っていた平八郎は、1910(同43)年、旧制大分中学校(現・大分上野丘高)3年時に留年したことをきっかけに画家を志し、京都に出ることになります。
 京都に出た平八郎は、まず京都市立絵画専門学校の別科に入学。翌年、京都市立美術工芸学校に進学します。当時の平八郎の実技の成績は抜群で、毎年、学年末に開かれる交友会展では1年次は銀牌(ぎんぱい)を受賞し、2年から4年までは金牌を受賞。卒業制作の「雨後」は学校買上げになりました。
 「野薔薇(ばら)」は、今回の展覧会の準備の過程で新たに発見された資料により、美術工芸学校の2年次の校友会展の出品作であることが判明した、現在、制作年が確認できる最も初期の作品です。同級の日本画家・高谷仙外の父親が購入したことで、初めて売れた作品となりました。満開の野バラや羽ばたくミツバチを丹念に観察して写し取っており、当時の平八郎の画力の高さをうかがい知ることができます。
 15(大正4)年、京都市立絵画専門学校に進学する頃から平八郎は、「九州」という雅号を使用するようになり、学校の課題以外に作品制作に取り組むようになります。文部省美術展覧会(文展)にも3度挑戦していますが、いずれも落選しています。
 「九州」の署名がある「春の風」はこの頃よく描いていた人物画の一つです。洛北(らくほく)・大原で取材した大原女の少女を題材にしています。あどけなさが残るかれんな少女の表情には、当時人気の絶頂にあった竹久夢二の影響がうかがえます。
 この時期の作品は、習画期ということもあり、作風に統一感がなく、特徴をつかみにくいところがあります。しかし、当時の平八郎が対象を忠実に写し取る写生の技術を磨きながら、円山四条派や琳派などの伝統的な日本画の学習に取り組み、一方で国画創作協会の画家たちや竹久夢二などの新しい傾向の作品にも興味を示し、さまざまな要素を貪欲に吸収しながら自らの進むべき道を模索していた跡がうかがえます。

(県立美術館主幹学芸員 吉田浩太郎)

令和6年5月25日 大分合同新聞掲載

 

《春の風》1916年 大分県立美術館

《春の風》1916年 大分県立美術館

《野薔薇》1913年 大分県立美術館【前期展示】

《野薔薇》1913年 大分県立美術館【前期展示】

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