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「没後50年 福田平八郎」寄稿記事【2】
学生時代は制作の苦労を感じることがなかったという平八郎ですが、京都市立絵画専門学校の卒業制作で大きな壁にぶつかります。先輩諸家の画法を器用にまねるだけで絵を描いてきた自分に気が付いたのです。そこで相談したのが美学の教授・中井宗太郎でした。
中井のアドバイスは、「自然を隔絶する幕(先輩の技法)を取り除く必要がある。自然に直面して、土田麦僊(ばくせん)君のごとく主観的に進むか、榊原紫峰君のように客観的に進むかであるが、君は自然を客観的に見つめてゆく方がよくはないか」というものでした。対象と真摯(しんし)に向き合うことを説いたこの言葉は、その後の画業を決定づける羅針盤となりました。
大正後半から昭和の初めにかけての平八郎は、対象を細部まで観察し、徹底した写実表現を試みた作品を発表していきます。その成果は、1919(大正8)年の「雪」での第1回帝国美術院展覧会(帝展)初入選、そして21(同10)年の「鯉(こい)」での第3回帝展特選受賞につながり、一躍画壇の寵児(ちょうじ)として注目を浴びることになりました。
平八郎は、当時のことを回想し、「自然物に対し一つ一つ仔細(しさい)に点検していきたく、自然の隅から隅まで、できる限り微細に探求し分析していって、そうした態度によってのみこの大自然は解決されると思われた」と述べています。2羽の鶴を描いた「双鶴」は、この方向性を顕著に表した作例の一つです。羽の一本一本から脚部の表面の凹凸まで緻密に描き込んでいます。目の表現も迫真的で、画面には凜(りん)とした緊張感が漂っています。
一方でこの頃の平八郎は、古典的な絵画の研究にも没頭しています。画業の中で最大級の画面に梅の老樹を描いた「閑庭待春」は、こうした研究を基に新たな表現を模索していた跡がうかがえる作品です。大画面に巨大な樹木を配し、装飾的に仕上げるスタイルは、安土桃山時代の障屛(しょうへい)画、中でも狩野山楽の絵に触発されたものです。徹底した写実を下敷きにしつつも、これまでにない装飾的な表現が取り入れられています。
(県立美術館主幹学芸員 吉田浩太郎)
令和6年6月1日 大分合同新聞掲載