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「没後50年 福田平八郎」寄稿記事【4】

寄稿 2024.06.15

 第2次世界大戦後の美術界では、戦時中の国粋主義への反動などもあって、伝統的な日本画を批判する「日本画滅亡論」や「日本画第二芸術論」が唱えられ、日本画家たちは苦境に立たされます。西洋の新しい美術思潮も一気に流入し、その流れに飲み込まれていく日本画家も少なくありませんでした。
 平八郎は、西洋美術への関心を示しつつも、日本画家がそのまねをすることについては否定的でした。どんなに大胆で斬新な表現に挑戦したとしても、あくまで日本画の伝統の基礎に立った上での革新を求めていたのです。
 昭和20年代の日展に出品した「新雪」「雲」「雨」は、いずれも日々の生活の中で目にする何げない風景の一部を切り取った作品ですが、徹底した自然観照によりながらも、対象が持つ造形の妙を見事に抽出し、写実と装飾が高い次元で融合した傑出した絵画作品へと昇華させています。
 一見、抽象画のように見える「水」は、画業の中で最も実験的な作品といえますが、独自のアプローチで絵画の造形性を追求した平八郎の日本画家としての矜持(きょうじ)を改めて示した作品です。
 1961(昭和36)年の第4回新日展に「花の習作」を出品すると、以後は日展への出品をやめ、百貨店や画廊などが主催する小規模な展覧会に心の赴くままに制作した小品を発表していくことになります。
 作風は晩年になるにつれ、形態の単純化が進み、線も形も色彩も細部にとらわれない、おおらかな造形へと展開。豊かな色彩に彩られた装飾的な画面は、一種独特の素朴な味わいが加味されていきます。子どもの絵にも興味を示していた平八郎は、落ちていた子どもの落書きを拾ってきて模写することもありましたが、目にしたものを素直に表現しようとする子どもの絵に芸術創造の一つの理想を見ていたのかもしれません。
 平八郎は晩年、「この頃はもう装飾的になっても、写実になってもかまわないと思っている」と言い、「問題は内容だ。ただ単なる装飾に流れるきらいがあることも気が付いているので、今後はもっと内部に食い込んでいきたい」と述べていますが、対象と真摯(しんし)に向き合い、写生でつかんだ造形の妙を作品に昇華していくという制作スタイルは終生変わることがありませんでした。

(県立美術館主幹学芸員 吉田浩太郎)

令和6年6月15日 大分合同新聞掲載
 

《水》1958年 大分県立美術館【通期展示】
《水》1958年 大分県立美術館【通期展示】
《鸚哥》1964年 名都美術館蔵【後期展示】
《鸚哥》1964年 名都美術館蔵【後期展示】