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「テルマエ展 お風呂でつながる古代ローマと日本」寄稿記事【下】

寄稿 2023.12.22

 別府八湯と呼ばれる浜脇、別府、観海寺、堀田、明礬、鉄輪、柴石、亀川の八つの温泉郷からなる別府温泉は、国内外から多くの観光客が訪れるわが国を代表する温泉地の一つです。その一番の魅力は、湧出量、源泉数とも日本一を誇る温泉です。泉質の種類の多さも群を抜いており、訪れる人は症状や好みに合わせて温泉を選ぶことができます。八つの温泉郷は、この豊かな温泉資源を有効に活用しながら独自の発展を遂げました。
 別府の各エリアの温泉場がいつごろ、いかにして開かれたかという記録は、ほとんど残っていませんが、鉄輪温泉には、時宗の開祖・一遍上人が鎌倉時代にこの地を遊行した折に開いたという伝承があります。鉄輪の中心部である風呂本には、一遍が開創したと伝わる温泉山永福寺があります。同寺は、かつて湯滝山松寿寺という一遍の幼名である松寿丸にちなんだ寺名を持つ寺院でした。境内には蒸し湯の他、内湯と滝湯があり、古くより湯治客に利用されてきました。中でも温泉で熱せられた床の上に石菖(せきしょう)を敷き詰めた蒸し湯は、鉄輪名物として広く知られており、風呂本の地名の由来となりました。
 江戸時代になると庶民の生活の中で湯治が定着し、別府を訪れる人も多くなります。江戸時代後期に発行された温泉番付には、浜脇と別府の温泉場が前頭として最上段に記載されており、その名が全国的に知られるようになっていたことが分かります。
 1694(元禄7)年に別府を訪れた福岡藩の儒学者・貝原益軒は、各温泉場の様子を「豊国紀行」に詳しく紹介しています。古くより別府の名物として知られていた砂湯については、「海中にも温泉出づ。潮干ぬれば浴する者多し、塩湯なればことによく病を治すと云」という記述があります。現在、別府の海岸の多くは埋め立てられていますが、それ以前は、潮が引くと砂浜の至る所から湯気が立ち、少し掘れば温泉が湧いていました。
 江戸の商人・川上藤兵衛正澄が日本各地を巡り、この時に目にした珍しい風景や風物を図入りで紹介した「諸国奇観」の中の別府温泉の図には、砂浜に穴を掘り、湯あみをする人々が描かれています。砂浜から湯気が出ている様子も確認できます。
 (県立美術館主幹学芸員 吉田浩太郎)

令和5年12月22日 大分合同新聞掲載

 

《一遍上人坐像》江戸時代 温泉山永福寺蔵
《一遍上人坐像》江戸時代 温泉山永福寺蔵
川上藤兵衛正澄《諸国奇観》1825大分市歴史資料館蔵
川上藤兵衛正澄《諸国奇観》1825大分市歴史資料館蔵